9.長いトンネルを抜けると そこは桜の園だった
JR福知山線廃線敷
生涯、桜を守り愛した男
旧福知山線は、明治半ば京阪地方と軍港のある舞鶴を繋ぐために建設された阪鶴鉄道に始まる。急流沿いの断崖絶壁を削る工事は難航を極めた。
一九八六年、JR福知山線の新線が繋がり、約十二キロの区間が廃線となった。その後、ハイカーの増加に応える形で、JR西日本が再整備を行い、現在は廃線敷区間として、一般に開放している。
さて、この廃線敷の武田尾よりに「桜の園」とよばれる場所がある。
春には桜、秋は紅葉が美しい場所で、ここに咲き誇る桜を守り続けた男がいる。大正の終わり大阪堂島の大地主の家に生まれた彼の名は笹部新太郎。彼は、父の薫陶を守り、東大在学中より自分の信じる「桜」の研究を人生のテーマとをする。しかし、研究室に閉じこもるのではなく、桜の苗圃を作り育て、研究に必要な資料の収拾にも力を注いだ。※1
彼が一九一二年に兄から譲り受けた演習林は、 約四十ヘクタール、サクラの品種保存や接ぎ木などの研究に使用した場所で、全国から集めたヤマザクラやサトザクラなどが三十種、五千本以上も植えられていた。彼はこの演習林を、中国の詩人・蘇東坡の漢詩から「亦楽山荘」※2と名付けた。
他にも大阪造幣局、夙川、甲山周辺の桜の管理指導など多くの桜に関わる事業を手掛けた。中でも一九六〇年の岐阜県御母衣ダムの建設に伴って行われた荘川桜(エドヒガン、当時樹齢四百年)の移植は、世界の植林史上においても稀有の業績と評価されている。また、水上勉の小説『櫻守』に登場する人物は彼をモデルにしている。
歴史秘話にしのみや【ウブスナ】vol.3-9