6.「命はいらない 水をくれ」
天正北郷樋事件
鳴尾の義民
この話は今からおよそ四百前、十六世紀末、豊臣秀吉の時代に鳴尾で起こった実話である。
武庫川は古来、度々大洪水を起こす暴れ川。しかし、平生の水量は少ない。氾濫でできた枝川に堤防を築いた所からこの物語は始まる。堤防は鳴尾村への古い水路を遮断した。そんな折、数年続きの大旱魃がやってきた。来る日も来る日も日照りが続き、鳴尾村の田の稲は今にも干上がりそうだ。水不足に苦しんだ鳴尾村民は、上流の瓦林村に水を乞うが、余水のない瓦林村に断られた。
こうなれば無理にでも水を引くしかない。勝手に隣村の水路から水を引くのである。お上に知られれば、死罪は免れない。しかし、自分たちの村の存続には代えられない。決心した村人たちは底を抜いた酒樽を繋ぎ、密かに川底に埋めて、瓦林村から取水した。稲は生き返ったが瓦林村は怒り、近隣の村も巻き込み死傷者まで出る騒乱となった。豊臣氏の奉行(片桐且元・増田長盛)は、自首した鳴尾村代表に「命が欲しいか水が欲しいか」と問うと、異口同音に「水が欲しい」と答えた。極刑の代償に水利をもたらした二十五人を村民は「義民」と称えたが、中には、一家の柱・父親の身代わりに処刑を志願した十三歳の少年もいたと云う。一方の当事者・瓦林村民も二十六人が処刑された。
この騒動は遠方まで伝わり、奈良・興福寺多聞院の記録に
【攝州ノ百姓共去夏水事喧嘩ノ衆八十三人ハタ物(磔刑)…天下悉ケンクワ(喧嘩)御停止ノ處、曲事(くせごと)(けしからぬ)の故也ト云々…】
とあり、豊臣政権としては喧嘩両成敗で臨んだ。
その後、鳴尾の住民が先祖の自己犠牲を偲び建てた義民顕彰碑は、現在も数カ所に残されている。
歴史秘話にしのみや【ウブスナ】vol.3-6