5. 西宮港発 江戸行き 下り酒
命をかけた清酒運搬レース「新酒番船」
江戸初期、伊丹の鴻池善右衛門が清酒を大量に製造する方法を編み出した。以来数十年の間に、西宮にも酒造りが広まる。西宮に湧き出る「宮水」は酒造りに適したミネラルを豊富に含んだ硬水で、この水で作られた灘の酒は、江戸の民に「下り酒」と呼ばれ大評判となる。江戸への運搬は、最初、馬に積んだ陸路であったが、廻船が盛んになってくると海路になり、出荷量も大幅に伸びて行く。
享保十二年(一七二七)晩秋、伸びる需要に対応し、また無理な販売競争を排除する目的もあり、新酒を江戸に届ける公式な海運レース「新酒番船」が始まった。
当日の朝、およそ十艘ほどの樽廻船(帆掛けの木造船)が西宮港の沖に並ぶ。船を任された船頭たちは合図と共に行司から船切手を受け取り、一斉に沖へ向かう。大きな帆は風を孕み、西宮から大阪湾へそして日本海へ向けて次々と出帆していく。
通常の樽廻船の運行は紀伊半島を回ると鳥羽などの海岸伝いの風待港に寄り、天候の改善を待ちながら江戸を目指す。しかし、新酒番船は一刻も早い到着が酒屋、廻船問屋、船頭などの関係者に大きな富をもたらすきっかけとなるため、遠く沖合の黒潮の速い流れを目指して船を操るのである。危険と隣り合わせのレース、途中、黒潮に飲まれ海の藻くずと消えた船は数知れず。江戸への到着は速ければ3〜4日。酒問屋の立ち並ぶ新川に着き、一番の栄冠を勝ち取った船頭は「惣一番」を名乗り、市中を練り歩く。船頭はその後一年大きな特権を与えられ、高待遇を受けた。また結果の報告は早飛脚で西宮の荷主や行司に知らせた。記録によると、当時西宮の回船問屋は六軒、大阪は八軒、樽廻船の数は百四十五艘にも及んだ。
歴史秘話にしのみや【ウブスナ】vol.3-5