宮水と酒文化の道〜にしのみや酒蔵案内銅板巡り〜

 

西宮観光協会では市内の酒蔵通りを中心に設置された案内銅板をまとめた「宮水と酒文化の道〜にしのみや酒蔵案内銅板巡り〜」を無料配布中です。

 案内銅板は2004年秋に西宮商工会議所によって設置され、銅板本文には設置されている場所で起こった出来事や、歴史に関する記述が記されており、当時の様子がわかる写真やイラストが記されているものなども有ります。

市内各地に点在する多種多様な銅板を当HP内にて全て閲覧できるようおまとめいたしました。

各地の銅板写真下テキスト部分をクリックいただくと掲載文字をご確認いただけます。



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1.阪神西宮おでかけ案内所

宮水と酒文化の道 酒香る 西宮郷・今津郷

 長い歴史を持つ強五郷の酒造りは、日本の酒造りの歴史でもあります。そもそも、酒という言葉は「栄え」すなわち“サカエ”からきたと言われています。酒を飲むことで人は、血気盛んになり、活動的になって、生活や仕事に活気が生まれ、家や地域が映えると考えたからです。このため、酒にまつわる話には、信仰、健康、政治、楽しみなど様々なものがあります。

西宮市には、古くから西宮郷・今津郷と呼ばれた2郷があります。すでに室町時代に「西宮之旨酒」とうたわれたこの地の酒造りの背景には、日本百銘水に選ばれた宮水があり、今でも息づいています。

 この「宮水と酒文化の道」は、西宮郷、今世郷の酒の歴史をたどり、活きた技術に触れ、酒の文化を味わうための道です。地域に点在する酒減とその風景に浸りながら、地域の文化と味を、足と目と舌で、どうぞゆっくりと味わってみてください。

 道の要所要所に設脳された「宮水と酒文化の道」のサインパネルを辿って行くと、西宮・今津の酒蔵地帯を抜けてかつて樽廻船が船出した西宮と今津の湊まで行くことができます。途中休憩することのできる場所もあります。ここから西宮湊までは1.2Km、今津湊までは3.1Kmの道のりです。

西宮郷・今津郷には14の酒蔵があり、それぞれの銘柄は、次の通りです。

翁正宗 大関 喜一 金鷹 金鹿 島美人 寿海 宝娘
多聞 灘一 灘自慢 日本盛 白鹿 白鷹

問い合わせ先 西宮商工会議所
電話:0798-33-1131
2004年9月


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2.田中町ウッドデッキ

地図情報のみ記載


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3.札場筋阪神西宮東口

宮水と酒文化の道
酒香る 西宮郷・今津郷

日本の酒の始まり
 日本の酒の始まりは、どこまでさかのぼることができるのでしょうか。 “人の生活の場に酒あり(酒があったはず)” と、発掘された上器などの生活用具から酒を想像する、“果実から酒は自然に生まれた”と、素材から想像する、など様々な視点から推測されています。米から造る今日の日本酒が生まれる前に、純文時代に酒はあったと言われています。発掘された土器と底に残っていたヤマブドウの極子から、”ヤマブドウ酒”は縄文中期にはあったといわれています(日本酒の5000年、加藤百一)。その後、木の実、雑穀などの酒が生まれたと言われています。米から生まれる日本酒の起源は、米の到来以後であり、それは縄文晩期の陸稲を得た時代にさかのぼります。その後、大陸からもたらされた水耕栽培と金属器の弥生文化の時代となって、米から造られる酒も、弥生文化の伝播とともに広がったと考えられています。

「歌志倭人伝」には倭国の酒に関する記述があります。「始メ死スルヤ停夷十余日、時二当タリテ肉ヲ食ワズ、喪主ハ哭泣(こきゅう)シ、他人ハ就キテ歌舞飲酒ス」。また風俗の記述については、「共ノ会同ハ、座起二父子男女ノ別ナク、人ノ性(サガ)酒ヲ嗜ム」これは三世紀前半の記録で、文献上の日本列島の酒の初見とされています。


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4.札場筋西宮本町

宮水と酒文化の道
酒香る 西宮郷・今津郷

 旧国道を西へ向かう道は、西宮神社への道です。
えべっさんと呼ばれる西宮神社は、商売の神様であることから、地元の酒減に
とっては、蔵の守り神でもあります。重厚な重要文化財(建造物)の土塀と豊
かな杜に囲まれた境内は、日常を離れた別世界です。ゆったりとした時間に浸
ってください。

 国道43号を渡り、南へまっすぐ向かう道は、宮水地帯を経て、西宮郷、
今津郷へつながっていきます。

 そのまま南へ進むと西宮郷を抜けて西宮湊周辺へ向います。
 次のサインを東へ辿ると、宮水地帯を抜けて、今津郷・大関酒造今津灯台
へ向かいます。


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5.西宮神社(赤門前)

宮水と酒文化の道
酒香る 西宮郷・今津郷

西宮
平安末期(1128)に、“西宮歌合”が広田社頭で行われ、同年“南宮歌台”があったことが記録されています。
その44年後(1172)に開かれた広田社歌合では「浜の南の宮づくり」「お前の浜」「えびす」などがうたわれていました。
当時、広田社、南宮社、西宮えびす社は、全体で一つの神社として統合されていたことや、西宮歌台と記述されているように、“西宮”の認識はこのころよりあったと考えられています。
今でも、えびす神の総本社である西宮神社には、本殿の周りに、広田神社の南宮社、百太夫社を含めて、12の摂社・末社が点在しています。

人形操り
西宮には古くから“傀儡師(くぐつ)”と呼ばれた人形操りの一団が住んでいました。
傀儡師は、えびす神社の雑用を奉仕しながら、一方で人形操りを演じていたのです。西宮の傀儡師は、えびす様をかたどった人形を主体に、諸国を巡り人々を楽しませると同時に、講釈をし、お札を配り、夷様の信仰を広めていました。
この一団が住んでいたところを“産所(さんじょ)”とよび、ここが現在の西宮市産所町となっています。
室町時代になると、宮中に参入するまでになり、人気も高まってきました。
その後、浄瑠璃と一体化して人形浄瑠璃となり、やがて文楽に発展していったことは、よく知られるとおりです。
その過程で淡路を始め全国に人形操りが広がり、それが現在に残っています。
傀儡師の守り神が百太夫です。百太夫の弟子達が、百太夫を祀ったものが百太夫社であるとされています。

市庭(いちば)
1300年頃には、南宮社の周りには市がたっていました。
それらは、西宮の町並みの中心を形成していた“市庭”となっていったのです。
1371年の西宮の大火災では消失した家が八百余軒という記録(吉田家日次記)もあり、すでに町が発達していたことがわかります。
鯛、網漁、牡蠣、海藻、その後、酒を京に搬出するようになりました。
この酒こそ“西宮之旨酒”と呼ばれたものです。

室町時代には、夷神は漁業の神だけでなく物々交換の市場の神とされました。
現在神社の西側に、市庭(いちにわ)という地名が残っています。


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6.白鷹

宮水と酒文化の道
酒香る 西宮郷・今津郷

南への道は、西宮郷の酒蔵地帯を抜けて、西宮淡周辺に向かう道です。
途中、白鷹緑水苑、白鹿記念酒造博物館(記念館・酒蔵館)があり、酒造りの歴史や、かつての感元の生活文化にふれることができます。
白鷹禄水苑と白鹿クラシックスのカフェ・レストランでは、休憩することもできます。
白壁といぶしの屋根瓦の街並みは、さわやかさの中に凛々しい印象をかもしだしています。
白鹿記念酒造博物館・酒蔵館は西宮市都市景観賞を受けています。
湊周辺に残る明治時代の洋館が、かつての風景を映しています。
湊周辺までの距離はおおよそ0.5KMです。

札場筋を渡って東へ向かう道は、宮水地帯を抜けて、今津郷、大関酒造今津灯台へつながっています。
宮水を汲み上げる多くの井戸は、この地域独特の風景をつくりだしています。
宮水庭園は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた井戸を庭園として整備したもので、兵庫県まちなみ賞と西宮市都市景観賞を受けています。

酒蔵通り煉瓦館と甘辛の関寿庵では休憩することが出来ます。
江戸時代に構築された大関酒造今津灯台は、今なお現役の木造灯台で、かつての樽廻船の船出を彷彿とさせてくれます。
灯台までの距離はおよそ2.4Kmです。


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7.宮水発祥の地

宮水と酒文化の道 酒香る西宮郷・今津郷
宮水:西宮の天然資源

宮水は灘五郷の酒造りにとって欠かせない存在です。
西宮のこの地域でしか得られない宮水が、切れの良い辛口の灘の男酒を造りだしたのです。
男酒をつくる宮水は西宮固有の天然資源と言って良いでしょう。
古代、このあたりの海岸線はもっと入り込んでいました。
もともと海だったこの地域に六甲山系の伏流水が、かつての海岸であったトリ貝層を通過することで、酒造りに都合の良い水を湧きだし続けていたという訳です。

これまで宮水は何度も危機を越えてきました。
産業化の波の中での大工場の進出、都市化の動きの中での高層ビルの建設などです。
これらを食い止めてきたのは、西宮郷・今津郷を含む灘五郷の努力です。
現在まで宮水を絶えさせ ないために、多くの努力がはらわれてきました。
地下水の汚染防止のために、下水道施設の建設に対して賃金的協力を行い、地下水脈を切ってしまう掘削や地下建設を抑制するために、共同で地域の土地を持ち合うなどの策を講じてきました。
営水の価値は、数千年の大地の活動、その価値を発見し活用してきた知感、守り抜く努力等が積み重なったものと言えます。
今後もより一層幅広い協力を得て、西宮の天然資源である宮水を後世に伝えてゆかなくてはなりません。
注:宮水庭園のサインもご参照ください

つまり、水の流れ、海岸線の位置、海水の浸透といった、バランスによりできあがった“生き続けている天然資源”です。
酒造りに都合の良い宮水は、1840年灘の山邑太左衛門がその効果を発見したと言われています。
魚崎郷と西宮郷で、水以外を同じ素材、同じ製法で造ったところ、酒の味が違うことから“宮水の価値”を発見したとされています。
西宮では、この宮水を使って何百年も酒を造り続けてきました。
宮水の成分は、鉄分がきわめて少なく、カルシウム、カリウム、リン等の含有量が多いことから、麹や酵母の成長を助けています。


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8.宮水庭園

産地を生んだ技術ー寒造りの確立

 江戸初期、酒造りは秋の彼岸から春先までの長期間にわたって行われていた。
このうち。厳冬に行われる酒造り「寒造り」の酒は最良とされる。
寒造りを主体とする酒造法を確立した地、それが灘である。
限られた日数で一年分の酒を仕込み、なおかつ質の向上を図るには、恵まれた自然条件にくわえ、次のような技術進歩の連鎖がなくてはならなかった。

◆水車精米と仕込み技術の進歩
 まず、当時つかわれていた足踏み精米を、六甲の急流を利用した水車精米にかえた。
これで寒造り集中化に必要な大量精米(1日10石)が可能になった。
あわせて精白度の上昇(精白度数8分が幕末には3割にまで向上)によって質のよい芳醇な寒造り酒への道がひらけた。
 さらに、丹波杜氏により仕込技術が改善された。酵母菌の経験的な改良によって、短期間で「もと」を仕込むとともに、じっくりと「もろみ」を熟成できるようになり、一日の仕込み量の増大と品質の向上との両立が可能になった。

◆生産用具の大型化と細分化
 生産用具である大桶の大型化が、仕込量の増大をささえた。
灘酒では1仕舞あたり18石のもろみを用いた。
沸きを考慮すると30石前後の大桶(他の酒造地では20石程度)が必要だ。
また、容積の増大と同時に、各作業に用いる専門の諸道具も生み出された。
このような周辺技術の発達と足並みを揃えて進歩したのである。

吉野杉への着目
 吉野杉の採用も灘酒の品質向上をささえた。
樽はいうにおよばず、酒造道具の大半をしめる桶類をはじめ、他のもろもろの小道具にいたるまで、その用材は杉、とりわけ品質第一の吉野杉であった。
杉を用いたのは、杉の木香が酒味に微妙な影響を与えるからである。
江戸の途上、灘酒は遠州灘の荒波にゆられて杉香をつけ、江戸到着のころには樽酒に水分が吸収されて濃度を増し、酒そのものをコクのある銘酒に変えたとも言われている。

◆千石蔵の出現
 酒の量産化が可能となり、それに伴って30石の大桶が出現するなど生産用具が大型化すると、当然酒造蔵もそれらを配置できるように規模が大きくなった。
千石造りの酒造蔵は、このように技術進歩と生産用具の大型化によって出現したということができる。

自由な風土が育んだ人形浄瑠璃
 西宮は酒造りの町であると同時に、人形浄瑠璃のふるさとでもある。戦国の世におわりがみえ、芸能にこころをはせるゆとりがうまれた室町末期、西宮には新しいもの楽しいものをうけいれる自由な風土があった。当時、戎神社・広田神社の祭礼には、人形を使って社の縁起・功徳を人々に宣伝する傀儡師(くぐつし)があらわれ人気をあつめていた。永禄11年(1568)には、西宮の「ゑびすかき」が宮中でも人形操りをおこない好評を博したとの記録がのこっている。この西宮の人形操りが、当時琉球より渡来した三味線、また浄瑠璃姫物語の語りものとも結ばれて人形浄瑠璃が成立したのである。 産所町、のちには札場筋の北には入 形操り小屋があり、西宮宿の旅人・酒蔵の蔵人などを集めて賑わったようだ。西宮の傀儡師のなかには、淡路へわたったものもおり、淡路の人形芝居にはいまでも戎神社の縁起がふくまれている。ただ、発祥の場西宮での人形芝居は、江戸中期に興業の場が京・大坂へうつったことなどから衰退し、明治初期には絶えてしまった。 まちを彩るのは自由な風土、未来の西宮をつくるのも自由な風土である。

白鷹株式会社
 初代辰馬悦蔵が酒造業を志し、新たに白鷹を創業したのは文久2年(1862)の年であった。 文人の作品にも数多く登場する『白鷹』は、王者の風格と気品を持つ鷹に、清酒の清らかさをあらわす白とを合わせて生まれた酒銘である。大正年間全国三千余の中から伊勢神宮御料酒に選ばれた唯一の銘柄であり、その後も永年にわたって奉献を続けている。 創業当初より、品質重視の超一流主義に徹する心意気は今も変わらない。原料米、宮水の確保に工夫と努力を重ね、丹波杜氏の伝統的な技法を生かし、難しい上に手間ひまのかかる「すりもと」と呼ばれるやり方を続けるなどして、『白鷹』独特の風味と気品を保持している。白鷹集古館には、かつての醸造用具や酒 器に関する美術品が展示されている。また、辰馬考古資料館には、初代の親友富岡鉄斎作品とともに、日本考古学研究の草分けの1人である三代目悦蔵が収集した考古資料を所蔵している。ことに銅鐸は、質の点では日本一と言われる。毎年春・秋の展示シーズンには多くの人達が来館し、日本考古学の啓蒙に貢献している。


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9.日本盛センチュリービル

宮水と酒文化の道 酒香る西宮郷・今津郷
酒は「百薬の長」
「酒は山脈を通じ、腸胃を厚くし、皮膚を潤し、石気をじ、石気を散じ、怒を発し、言を述べ、意をのべる(陳臓器:中国、唐)」と記述されています。

酒の語源である“サカリ”という言際にある、血気さかんとなって栄えてゆく、という意味も陳臓器の記述に通じています。
つまり、酒には、生理学的な効用とともに精神的な効用があることから、人を総合的に健康な状態にもたらしてゆく、と考えられていました。

アルコールは“飲む風呂”とも言われ、血行を高める効果があります。
とりわけ、醸造酒である日本酒には、原料や発酵で生じる栄養成分がそのまま含まれているため、健康にも良いと言われています。
アミノ酸、ビタミン、 ペプチドといった新陳代謝を高めるものや、体に必要な微量栄養素が多く含まれていると言われています。

しかし、唐代の孟詵(もうせん)は、「脈を通じ、脾気(ひき)を養い、 肝を扶(たす)ける」という一方、「久しく飲めば神を傷り(やぶり)、寿を損じる」と記しています。
いかに優れた薬でも、飲み過ぎると害になるのと同じです


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10.日本盛

宮水と酒文化の道 酒香る 西宮郷・今津郷
酒は「美」
日本酒には、肌の美白効果をはじめ、さまざまな美容効果があります。
コウジ酸は、米麹に含まれる有効成分で、細胞の老化を防ぎ、活性化する作用を持つ物質として注目を集め、実際に化粧品、養毛剤や育毛剤などに使われてます。
化粧品の成分として使われた場合、シミやほくろの原因になるメラニン色素の生成を抑える働きがあるため、美白効果が期待できるわけです。
しかも、保湿効果もあるためはしっとりします。

酒は「知恵」
中国の魏晋時代(3世紀)に輩出した、七賢人、阮籍(げんせき)、嵆康 (けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、阮咸(げんかん)、劉伶(りゅうれい)、王戎(おうじゅう)の話も有名です。
当時は、儒教の精神を支えとして永く続いた漢王朝が崩壊して、政争の絶えない時代でした。
そうしたなか、七賢人たちは俗界を離れて竹林に集まっては、酒を飲んだり、琴を弾いて談をたたかわせたり、自由に交遊して日々を過ごしていました。そして、天眼の悟りを開いたということから、酒は賢(さか)、つまり利口になる薬と言われてきました。


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11.日本盛酒蔵通り煉瓦館

宮水と酒文化の道 酒香る 西宮郷・今津郷
酒:酒器の文化 酒は、いつ、どこで、誰と、どのように飲むかで、その器の形式が変わってきました。古代日本では、貝殻を器としていたと言われています。後に上器でつくった扁平な“かわらけ”が生まれました。神の前で飲む酒は、“銚子”から酒盃に注がれて、飲みました。この習慣は結婚式の三三九度に残っています。“提 (ひさげ)”は空いた銚子に、酒を補充するためのものです。
 酒を共に飲む、つまり多くの人で供飲していたときは、大きな酒盃を用いて回し飲みをしていました。これが、小さい“猪口”になったのは、酒を一人一人で飲む様になってからです。小さい猪口が出来たのは、アルコールが強くなったことも一因です。
酒:多様な楽しみ 奈良時代のような、酒は健康維持の重要な食材であった時代から、江戸時代以降定着した庶民が酒そのものを楽しむ時代を経て、今では楽しみながら健康を造る酒の時代へ変わろうとしています。自然の産物である酒の基本的な栄養素を、現代のバイオ技術などにより強化することで、それは可能となります。日本盛ではこれまでも、体にやさしい日本酒や自然派の化粧品などを開発してまいりました。さらに、酒と食、個性的な器やラベル等、酒にまつわる現代の楽しみを創り出すことは、この日本酒情報発 信基地“酒蔵通り煉瓦館”の役割と考えています。
 酒を温めて飲む文化は平安時代と言われています。江戸後期までは、“燗鍋”に酒を入れ、直接加熱していましたが、より安定させて温度を加減できる湯煎に変わりました。湯煎の時に酒を入れる器が“ちろり”で、そこから徳利に移して酒を飲んでいました。しかし、庶民は“ちろり”から直接酒を猪口に注いでいたようで、江戸期の居酒屋の絵などに見ることが出来ます。 また、酒器の素材は、焼き、漆器、陶器、磁器、錫、ガラスと、時代と共に変化し多様化しています。漆器は、儀式などの改まった場で用いられますが、これは今でも同じです。 酒器の歴史は、酒を楽しむ文化の歴史です。酒の種類も一段と多様化した時代に、好みの酒に好みの酒器を組み合わす、自ら酒器をつくるなど、より楽 しい酒が可能となりました。


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12.白鷹禄水苑

宮水と酒文化の道 酒香る西宮郷・今津郷
文化を醸成する

西宮には大正から昭和にかけて、映画の撮影所がありました。
その頃、西宮で育った俳優の森繁久弥氏の「西宮今昔」には、往年の時代劇映画のロケ地として酒蔵地帯が描かれています。

「麹の香りのほのかに漂う西宮の酒蔵の暗い細い露地を、阪東妻三郎や大河内伝次郎が三尺を抜いて、寄らば 切るぞと走ったのである」

酒は、西宮の前の手の風景に溶け込み、阪神間の文学や芸能の隆盛に大きな役割を果たしました。

酒どころは出どころ

昔、酒は神と人をつなぐものと信じられていました。
酒は神とともに飲むものとされ、神聖な超能力を得る媒体とされていました。

演劇発祥の地、古代ギリシャでディオニュソスの神が、酒と演劇、両方の神様であったように、芸能と酒とは深い関係にあります。
文楽(人形浄瑠璃)の正月公演でよく上演される『七福神宝の入船』ではエビス様や大黒様がにぎやかに酒を酌み交わしますが、「文楽の三番叟のかしらがえべっさんの顔になっているのは、人形遣いの先祖が西宮の夷神に仕えたから」と伝えられています。

文人墨客のサロンとなった西宮

酒都・阪神間では、造り酒屋の「旦那」が代々蒐集してきた書画骨董を収めた美術館や、私財を投じて設立した文化施設が数多くあります。

旦那は近代的な感覚を持つ事業経営者であると同時に、みずからが書画骨董に精通し、絵画、書、和歌、俳句、茶の湯、古典芸能などの文人的な教養を身につけていました。

文人画最後の代表的作家である富岡鉄斎(1836~1924)と北辰馬家・初代悦叟(1835~1920)の交流は、明治40年頃、鉄斎72歳、悦叟73歳の時に始まり、悦叟が亡くなるまでの13年間長文の書翰のやりとりが続きます。
鉄斎の絵と灘の酒を愛したのが、昭和を代表する批評家・小林秀雄(1902~1983)でした。

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映画・芸能・文学など、西宮に打った文化の成に欠かせないのが酒であり、造り酒屋は常に「地域文化の応援者」であり続けました。
「白鷹禄水苑」は、新しい地域文化の拠点として、この「造り酒屋の伝統」を今に受け継ごうとしています。


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13.白鹿クラシックス

宮水と酒文化の道
酒香る 西宮郷・今津郷

明治になると酒づくりの近代化が始まりました。
西宮でもそのさきがけとして、業界の先を切って精米に蒸気力を用い、酒造用の燃料を薪から石炭に換え、そのため酒蔵をレンガ造とすることで、仕込の大量化を図るなど、次々に新風を吹き込んでいきました。

寒造りが日本酒の品質を高めてきたのですが、厳冬期の短期集中醸造であったため、量産化はできません。
限られた期間内でも品質の良い清酒を量産することが可能になりました。すると、次には大きな酒蔵がたくさん必要になってきたのです。

明治の末から大正の中ごろにかけて酒造業は堅実な発展をとげ、酒造蔵増設や精米工場の新築など設備の大幅な拡張を招来することとなりました。

昭和30年代の清酒業界は食糧事情の好転で、原料米も次第に増加し需要も旺盛になり、遅ればせながら生産・販売両面とも規制緩和が進められました。
これを背景に、西宮の酒造業者も生産の増強に向け、冬期以外にも仕込を行うために、空調設備の整った四季醸造蔵の整備など設備の近代化を進めました。この結果年間を通して質量ともに安定した酒の供給が可能となったのです。

現代の酒造業は、競合の激化、国際化、ハイテク化などによる新しい変革期を迎えています。
江戸期の創業以来永年にわたって蓄積してきた実績と経験を情報化により、未来の酒造りに活かすことが可能となり始めました。
温故知新一古きをたずねて新しきを知る一これが新しいスタートの原点です。

丹波杜氏が伝承してきたかけがえのない技術に、最新の醸造醗酵技術を加えて、集積・分析・加工し、データ化することで、コンピュータ制御の新醸造蔵が未来の酒造りを切り開きます。

明治大正から昭和初期にかけての日本産業の近代化の流れの中で、白鹿ではかねてより計画中の冷凍装置付の新式醸造工場、および自動連続式瓶詰機2連を有する瓶詰工場(「白鹿館」)の建設を着工し、昭和5年5月に竣工、業界の先駆として世人を大いに驚かせることとなりました。


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14.白鹿記念酒造博物館

宮水と酒文化の道 酒香る 西宮郷・今津郷
日本から世界へ

この南に西宮湊があります。
江戸時代にはここから江戸への下り酒がさかんに積み出され、さぞや活気があったであろうと想像できます。
このあたりには、明治時代に建造されたレンガ造りの酒蔵がありましたが、平成7年の阪神淡路大陸災で崩壊してしまいました。
右手に見える洋館は辰馬喜十郎の住居で、日本人の手で建て日本人が住んだ洋館では最古の建物です。
この建物からも、新しい文化を積極的に取り入れようとする酒造家の進取の気性が感じ取れます。
こうした気概が目を外にも向かせることになったのかもしれません。

これを示すように、辰馬本家では1889年のパリ万国博覧会をはじめアメリカ・スペイン・ベルギーなどで開催された各回の万国博覧会に“SAKE”を出版、いずれもメダルと賞状を受賞し世界への第一歩を踏み出しました。



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1.阪神今津駅前

宮水と酒文化の道 酒香る西宮郷・今津郷
長い歴史を持つ選五郷の酒造りは、日本の酒造りの歴史でもあります。
そもそも、酒という音楽は「栄え」すなわち“サカエ”からきたと言われています。
酒を飲むことで人は、血気盛んになり、活動的になって、生活や仕事に活気が生まれ、家や地域が栄えると考えたからです。
このことからも、酒にまつわる話には、信仰、健康、政治、楽しみなど様々なものがあります。
 西宮市には、古くから西宮郷・今津郷と呼ばれた2郷があります。
すでに室町時代に「西宮之旨酒」とうたわれたこの地の酒造りの背景には、日本百銘水に選ばれた宮水があり、今でも息づいています。
 この「宮水と酒文化の道」は、西宮郷、今津郷の酒の歴史をたどり、活きた技術に触れ、酒の文化を味わうための道です。
道中に点在する酒蔵とその風景に浸りながら、地域の文化と味を、足と目と舌で、どうぞゆっくりと味わっ てみてください。

 道の要所要所に設設された「営水と酒文化の道」のサインバネルを辿って行くと、西宮・今津の酒蔵地帯を抜けてかつて樽廻船が船出した西宮と今津の湊まで行くことができます。
途中休憩することのできる場所もあります。
ここから西宮湊までは1.2Km、今津湊までは3.1Kmの道のりです。

西宮郷・今津郷には14の酒蔵があり、それぞれの銘柄は、次の通りです。

翁正宗 大関 喜一 金鷹 金鹿 島美人 寿海 宝娘
多聞 灘一 灘自慢 日本盛 白鹿 白鷹

問い合わせ先 西宮商工会議所
電話:0798-33-1131
2004年9月


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2.今津中学校

宮水と酒文化の道・ 酒香る西宮郷・今津郷

酒蔵通りを東に向かうと、今津郷の酒蔵を抜けて、大関酒造今津灯台へつながっています。
江戸時代に構築された大関酒造今津灯台は、今なお現役の木造灯台で、かつての樽廻船の船出を彷佛させてくれます。
灯台までの距雌はおよそ1.3Kmで、途中にある甘辛の関寿庵では休憩することが出来ます。

 西への道は、宮水地帯を経て、西宮郷の酒蔵、西宮湊周辺に向かう道です。
宮水を汲み上げる多くの井戸は、この地域独特の風景をつくりだしています。
宮水庭園は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた井戸を庭園として整備したもので、兵川県まちなみ賞と西宮市都市景観賞を受けています。
白鷹禄水苑、白鹿記念酒造博物館(記念館・酒蔵館)があり、酒造りの歴史や、かつての蔵元の生活文化にふれることができます。
酒蔵通り煉瓦館、白鷹禄水苑と白鹿クラシックスでは、休憩することもできます。
西宮湊周辺までの距離はおおよそ1.6Kmです。


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3.大関 甘辛の関寿庵

宮水と酒文化の道 酒香る西宮郷・今津郷

江戸の居酒屋

 居酒屋は江戸時代中期から後期に誕生しました。
小売りの酒屋が店先で、味利きのために飲ませたのが始まりだと言われています。
やがて、酒の一杯売りに発展し、簡単な肴も出すようになり“居酒”すなわち居酒屋が生まれました。
 当時の居酒屋では、お酒は、店先の樽から“ちろり”という把手の付いた銅製筒形の器(一〜二合入)に移し、燗をして出していました。
燗は、薬罐または銅壺に入れて湯煎しました。
客は、縁台に座り、簡単なツマミで一〜二杯飲むというのが一般的でした。
江戸で消費される酒の過半数は、今の灘五郷の酒でした。
従って江戸まで大量の酒を輸送するには、様々な工夫と競争がありました。

新酒番船

江戸では、「新走(あらばしり)」と呼ばれるまだ麹の香りが抜け切れていないような、搾りたての新酒が好まれていました。
そのため西宮と大阪の廻船問屋は、新酒を積んで江戸までの到着を競い合っていました。
それが新酒番船で、早い場合には3〜4日で運びました。
丸2日という最短記録も残っています。
 同時に湊を出港し、江戸の品川湊に到着した新酒番船は、伝馬船を下ろして大川端の問屋でゴールとなります。
一番で江戸に到治した船は、江戸の酒問屋に盛大に出迎えられました。
到着するやいなや、江戸の酒問屋の行司や関係者が利き酒を行い、新酒の出来柄や立値段を決めました。
早いほど価値が上がるので酒蔵も真剣です。
ですから、番船の到着順位や値段が決まると、ただちに早飛脚が、大坂・西宮へと発ったのです。
当時の早飛脚は、 江戸-大阪間を6日で走り抜けたので、新酒番船が西宮を出発してから丸10日ほどで、 江戸での結果が、西宮まで届いたことになります。

清酒にはいろいろな利用方法があります
 昔から清酒は飲むだけでなく、様々な用途で広く愛されてきました。
例えば、歌舞伎役者は清酒を水で薄め化粧水の代わりに愛用していました。
清酒は、肌を整え、白粉などののりをよくすることに気づいていたからです。
現在では、精米技術と醸造技術の発達により、純米酒をはじめ、吟醸酒や大吟醸酒、本醸造酒等があり、それぞれに、適した使用方法が開拓されています。
吟醸酒は旨みを生かし、食文化を広げました。
 清酒の副産物の「酒粕・米ぬか」も、奈良漬、ぬか対け、甘酒等の食品だけでなく、基礎化粧品の原料となります。
特に酒粕には疑縮された栄養分があり、醸造技術の発達過程で培われたノウハウを利用して特殊な酵母を生み出し、ナチュラルで安全な「酒粕発酵エキス」の製造に成功しました。
西宮名物「酒饅頭」はもちろん、「酒カステラ」「酒ゼリー」等の和洋菓子や、美味しい肴作りに欠かせない清酒調味液も作られています。
清酒は、その栄養豊富な特徴を生かし、「化粧水」「乳液」・「洗顔フォーム」等の基礎化粧品、スキンケア商品の原料となります。
「甘辛の関寿庵」では旨い酒、美味しい和菓子を初め、老若男女を問わず、皆様の生活が豊かになる、そのような商品を取り揃えております。
大関では、 未知の可能性を秘めた「清酒」や「酒粕」の利用方法を日々研究しています。


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4.大関

宮水と酒文化の道 酒香る 西宮郷・今津郷
四斗樽
 酒は、吉野杉でつくられた四斗樽 (四斗=72リットル)と呼ばれた統一規格の樽に詰めて、樽廻船で運搬されました。
 規格を統一し、専用の樽廻船で運搬することで、積み卸しの時間が短縮できます。
その結果、酒の傷みも少なくなります。
さらに、波に揺られるたびに吉野杉の香気が酒に移るので、江戸に着くころには芳醇な味わいの酒となっていました。
江戸に至る間にも、西宮・今津の酒は、育っていたわけです。
 そのようにして遊ばれた酒は、江戸に向けて「下(くだ)って」いったことから、「くだり酒」と言われていました。
江戸に下る酒は上等のもので、下らないものは下等なものとされていました。
「くだらない」という言葉は、ここから生まれています。
樽廻船と四斗樽で、生産者である酒蔵と江戸が直結されたことで、質の高い旨い酒は、さらに価値が高まりました。


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5.今津港

地図情報のみ記載


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6.今津灯台

宮水と酒文化の道 酒香る西宮郷・今津郷
樽廻船に江戸積みされた酒

 上方で船積みされた酒が江戸に到着するまでの日数は、江戸時代初期には平均3週間から1ヶ月かかっていましたが、幕末期には、樽廻船と四斗樽で、通常1週間ほどで運べるようになっていました。
それが新酒番船となると、早い場合には3〜4日ですから、この間に10倍も遅くなったことになります。
 江戸の品川湊、佃島沖に碇泊した樽廻船から、酒は伝馬船に積み替えられて、霊岸島、茅場町、新堀、新川に集中していた“下り酒問屋” に運び込まれます。
酒問屋は、桝酒屋(小売り酒屋)の注文に応じて、酒をを売っていました。
新川付近には、今でも酒蔵のオフィスがあり、当時の酒蔵の“力”を感じさせてくれます。


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