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「西宮まちたび博」のプログラムのひとつ、「古代から近世をたどろう 『津門中道(中国街道)』を歩く」に行ってきました。
西宮市内には、昔、京の都と九州を結ぶ「西国街道」という主要な街道とは別に、大阪から尼崎を経て西宮へ向かい、西宮神社の近くで西国街道に合流する「津門(つと)の中道」という街道がありました。いわゆる「中国街道」のことです。
10月から始まった「西宮まちたび博2014」では、実に112種類ものプログラムを用意していますが、10月19日(日)に、その一つ「古代から近世をたどろう 『津門中道(中国街道)』を歩く」に参加してきました。
これは、阪神電車「武庫川」駅を出発し、西宮神社まで中国街道をたどって歩く歴史探訪です。秀吉の中国大返しの舞台にもなったと言われる武庫川沿いの道に始まり、鳴尾地域の神社や旧跡を、西宮市立郷土資料館の学芸員さんの案内でたどりました。
- 今回ご紹介した「古代から近世をたどろう 『津門中道(中国街道)』を歩く」は今年度は終了しました。「西宮まちたび博2014」では、この他にも魅力的なプログラムをたくさん用意しています。詳しくはこちらをご覧ください。
阪神電車の武庫川駅に集合し、ここから出発です。
西宮市小松南町の岡太(おかだ)神社には、源平時代の平重盛ゆかりと伝わる石塔や、豊臣秀吉の中国大返しの際の伝承などが伝わっています。江戸時代には西宮市域は幕府領や私領が交錯する地でしたが、この写真に写っているのは、その領界を示す碑です。右側は「従是東尼崎領(是従(よ)り東は尼崎領)」、左側は「従是西尼崎領他領入組(是従(よ)り西は尼崎領・他領入組)」と刻まれています。同様の領界碑は西宮市内には他に西広寺(段上町)や津門神社(津門西口町)に残っています。
阪神電車鳴尾駅の東の一本松公園に今も立つ「鳴尾の一本松」。1978(昭和53)年に植えられた5代目が、今に至っています。古くは往来する旅人や航海する船人たちの目じるしとなった松は、今は建物に囲まれていますが、真っすぐに空にのびています。
鳴尾八幡神社(西宮市上鳴尾町)の本殿へ続く長い参道。反対側は阪神電車に分断され、今では鳥居の前を電車が通っています。
上鳴尾墓地の石造五輪卒塔婆形板碑。南北朝時代の造立と推定され、西宮市指定有形文化財。横に立っているのは、西宮市立郷土資料館の合田(ごうだ)学芸員。
八ツ松公園(西宮市甲子園六番町)の「義民顕彰碑」の説明を聞いています。天正20年(1592)に起きた農業用水の水争いの犠牲者を、鳴尾村の人々は義民として崇め、天明7年(1787)に浄願寺境内に義民碑を建立し、その冥福を祈りました。1970(昭和45)年には、浄願寺の隣の八ツ松公園に、新たに顕彰碑が建てられました。
甲子園球場の横を南北に走る道路「甲子園筋」は、昔は枝川(えだがわ)という川でした(大正時代に道路になりました)。中国街道が枝川をこえる所に「六石(ろっこく)の渡し」があり、渡しの両側には何軒もの茶店がありました。その時代のなごりが渡しの東側にあたるところに、今も「四軒茶屋(しけんじゃや)公園」として、公園名として残っています。
中国街道が枝川をこえる渡しの茶屋で売るモチは評判となり、毎日、六石ものモチをついたと言われ、渡しの名前も「六石の渡し」と呼ばれるようになりました。渡しの西側にあたるあたりが、今でも「甲子園六石町」として、その名が残っています。
西宮神社に近づいてきました。西宮神社の祭神であるエビス様を今の社地へ移す途中に、仮眠をとった場所は、御輿屋(おこしや)伝承地として、現在も祭礼が行われています。
西宮神社に到着しました。通称「赤門」と呼ばれる表大門(おもてだいもん)は、桃山建築の遺構を残し、その左右に連なる大練塀(おおねりべい)と共に、国の重要文化財に指定されています。
最後は西宮神社境内の「おかめ茶屋」で、満足(みたらし)団子とエビス宮っ子茶をいただきました。約6キロ、2時間の道のりでした。お疲れさまでした。
(SH)